■ Pocoの歴代メンバー



■ ジム・メッシーナ Jim Messina

  Jim Messina は、7つの顔を持っている。プロデューサー、レコーディングエンジニア、シンガー、ソングライター、ギタリスト、ソングライターワークショップの主催者。その素顔を、今年3月に行われ、夏から秋にかけて、某ギターメーカーのサイトに掲載されたロングインタビューから彼の言葉を拾いながら素顔をたどっていければ、と思います。
おつきあいのほどを。
  1947年12月5日、カリフォルニア州のMaywoodで生まれました。父方は、Messina という姓から推測できるようにイタリアからの移民で、南カリフォルニアで、貧乏ながらも陽気な日々を送っていたようです。母は、テキサス女。メキシコ国境に近いHarlingenの母の家にはいつも、トラディショナルカントリーミュージックが流れていた、といいます。そんな彼が早くから音楽に感心をもち、ギターを手にしていたのは、当然の成り行きだったのでしょう。
  カリフォルニアでのティーンエージャーのころ。「Dick Daleが僕のヒーローで、僕はサーファーだったんだ。いつもビーチにいたよ。」ロスアンジェルスの、マンハッタンビーチエリアです。「当時のLAには、2つの違ったライフスタイルがあったんだ。ひとつは、先のとがった靴を履いてぴったりしたパンツを身に着けているヤツらと、もうひとつは、サーファーさ。僕たちは、リーバイスとコンバースのテニスシューズを履いて、TowncraftのTシャツを着ていたんだ。」
The Jesters   波に乗りながら、大好きだったサーフィンミュージックを演奏するバンドを作ります。“Jim Messina and The Jesters” 週末にダンスパーティで演奏すると、いくばくかのお金になり、それで、49年製のChevy (シボレー)を75ドルで購入。ギターとサーフボードを積んで、学校と海とリハーサルとパーティ会場を往復する高校生。The Jestersは、高校を卒業するまでにアルバム “The Dragsters” を作ります。
  さてさて実は、あまり語られていないJimのもうひとつの側面がここにあります。「小さいころから機械いじりが好きで、そこらへんにあるものを使ってラジオとかを作っていたんだよ。たとえば、トイレットペーパーの芯とかね。ほんとに、なんでスピーカーから音が聞こえてきて、でも、息のにおいがしないかが不思議だったよ。」
  Colton Union 高校を 1965年6月に卒業すると、Jimは、49年製の Chevyを走らせて一目散に ハリウッドへ向かいました。しばらくは、高校時代の音楽仲間とクラブ等で演奏活動をしていますが、ちょうどそのころ、アメリカには、ビートルズや、ローリングストーンズのイギリス音楽の旋風が吹き荒れます。 Jimは、「サーフィンミュージックなんて、もう、全然見向きもされなくて、かといって、ビートルズみたいになるなんて、そんなことできっこないもの。もう、僕には、音楽の才能なんて無いんだ、ってあきらめたんだ。エンジニアとして生きていく道しかない、って思ったのさ。」
 そうやって、スタジオでエンジニアとして働くようになり、1966年Jim19歳のときに、ハリウッドのサンセットスタジオで、週給175ドルの仕事を得るようになります。「ほら、もともと、機械いじりが好きだったからね。スタジオでたくさんのスピーカーやアンプやチューブが大きなノイズを出すのがすっごくクールなことに思えたんだ。」
 そこで立ち会ったのがBuffalo Springfield の2枚目のアルバム“Again”の製作の現場でした。そこで、Neil Youngに初めて出会うまでBuffalo のことは一切知らなかったというから驚きです。続いてStephen Stills、Richie Furayに出会い「彼らは、僕のルーツがカントリーフォークだった、ってことを思い出させてくれたよ。これこそ僕にとっての”Americana”だ、イギリス音楽じゃないんだ、って思ったんだ。」
 事実上Buffaloの最後のアルバムとなる”Last Time Around”のレコーディングが行われるころ、1968年1月、ベースのBruce Palmerが麻薬で逮捕されます。Jimは「あのとき僕は、自分でオーディションを受けたい、って言ったんだ。そのときはNeilもRichieもStephenも驚いていたよ。だって、みんな僕が楽器を弾くなんて知らなかったからね。でも実は、僕自身もベースが弾けるかなんてわからなかったんだよ。だって、弾いたことなかったから・・」オーディションまでベースの大特訓をした、というから、笑ってしまう話です。
 でも、もっと可笑しいのは「いっしょにやるようになるまで、実は、バンドの中がドロドロで、エゴと疑心暗鬼の固まりだった、なんてこと全く知らなかったんだよ。」いえ、笑ってなんかいられません。Jimは回想します。「彼らは、ゲームをしているみたいだったよ。最初、僕を驚かせ怖がらせたと思ったら、次にはしかりつけるんだ。意図的にやってるとは思わなかったけれど、ここからどんなことが得られるのか、わからなくなったんだ。だから、昔みたいに、自分のバンドで自分のレコードが作りたい、って本当に思ったよ。だけれど、”Last Time Around”を作ることが責任のある大きな仕事だ、って思っていたからね。」
 結局、プロデュースまで引き受けることになり、まだ20歳になったばかりのJimはBuffalo Springfieldという巨大な「もの」に振り回されることになります。これって、もしかしたら、誰も引き受けなかった嫌な仕事をJimに大人が押し付けたんじゃないの?何も知らない、だけれど器用でセンスのある若者。とにかく、レコード作って、売れば、儲かる。 Richie and Jim in Buffalo Springfield
 さてさて、ここで登場するのが、その辛かった時期にJimの支えになるRichie & Nancy Furay夫妻でございます。「僕たちはとても近しい関係だったし、実際いつも一緒にいたんだ。」 こんなふうにNancy & Richieに世話をしてもらったという人は、Jim以外にもたくさんいるのを、私は知っています。60年代からRichieのファンだった、という人の話。家にはいつも友人がいて、Nancyはお手製のクッキーを振る舞い、温かいおもてなしをしていたそうです。私も2004年8月1日サンディエゴでNancyに会ったとき、「あらあなた、私のうちに来たことあるんじゃない?」と声を掛けられました。もちろん初対面ですから、お邪魔したことはありませんが、ということは私のようなアジア人女性もFuray家に出入りしていた、ということなんでしょう。
 それはさておき、Richie のために働きたい、と思っていたJimは”Kind Woman”でペダルスティールを弾くRusty Youngを見て、触発されていたRichie に「ちょうどそのころナッシュビルのギターショップで一緒にギターを見ていたんだけれど、僕からもちかけたんだ。“一緒にもっとカントリーっぽいバンドやらない?”ってね。」
実は、学生の時代からカントリーセットでの演奏の経験のないJimでした。そのあたりは、まぁなんとかなるだろう、という軽い気持ちでいたようです。そうして我らがPoco の誕生であります。
しかしながら3枚目”Deliverin’”まででPocoを脱退してしまうのには、いろいろと理由があったようです。
 まずは、Buffalo時代から知り合いだったPocoの初代マネージャー。「Pocoのアルバムリリースのために、走り回ってくれたのはいいのだけれど、レコード会社と信頼関係を築くことができなかった。なぜなら、口約束はするんだけれど、それが後で問題になるケースが多くてね(**どこかで聞いたような話ではありますが・・・)CBS/Epic に決まるまでが大変だったんだ」その上、「これが僕が大きなレコード会社と仕事をする初めての機会だったけれど、実はプロデューサーである僕が、ミキシングをこの手ですることが出来なかったんだよ。本当は、もっとロックンロールっぽい音にしたいと思っていたんだけれど、実際カントリー色の強いものになってしまった。」
 次、「もっと悪いことに、Randy Meisnerが、突然怒り出して、荷物をまとめて出て行ってしまったんだよ。まだ、レコーディングも終わってないのにね。」すでに、5人で出来上がっていたジャケットのRandyの部分をエアブラシで上塗りし、犬に挿げ替えたのも、音の取り直しをしたのもRichieの意向だったようです。実際、「Richieは、Randyのベースプレイを高く評価し、もっと前面に出て弾いて欲しいと言っていたのに、Randyはどうにも躊躇し、だらだらと自分の楽しみだけでやっている、っていう態度を取っていたからね。」
 アルバム第2作目 “POCO” までにはTimothyが加入し、マネージメントもエンジニアも替わりましたが、あいかわらずゴタゴタしている。おまけにどういうわけか、ライブバンドという位置づけが確固たるものになっていく反面、ラジオでのオンエアやアルバムのセールスが、むしろ加速度的に減っている。「みんながっかりしちゃってね。特に、Richieなんてイライラしっぱなしで、どうにも受け入れられそうにないことばかりやろうとするんだ。」そのときJimの脳裏に浮かんだのは、人間関係で悩んでいたBuffalo Springfieldのことだった、と話しています。考えてみると、Pocoの歴史、って「大ヒットを模索する歴史」と言い換えることができますね。ここでのRichieの苛立ちはその最初だった、というわけです。比較していたのはCSN&Yでしょうか。すっかり興味を失ったJimはまた、スタジオに戻りたいと強い気持ちを持つようになります。
 「Richieは僕のmentor(指導者、助言者)だったし、僕は本当にRichieを愛している。バンドのことも大好きだったし、音楽的にはまったく問題は無かったんだよ。Rusty, George, Timothyもいい奴らだし、自分がPocoにとって重要だ、っていうのもわかっていた。」だからこそ、離れるにあたって周到な準備をすることにしました。後任のギタリストを探し、きちんととトレーニングをして、そしてバンドを離れることにしたのです。そこには、急に居なくなったRandyのことが頭にあった、と言います。「誰かが代わりをしないといけないから、僕がベースを弾いた時期があったけれど、実際問題、ソロを取るのがRusty のスティールだけだった、っていうのがどれほどタフなことだったか、よくわかっていたしね。」そこで、Paul Cotton に声が掛かった、というわけです。「僕は、Paulに必要だと思うことは、すべて教えたよ。Rustyのパートはそのままにしてね。僕たちは、すっかり仲良くなって、引継ぎはまったくうまく行ったんだ。そして僕は、CBSとのプロデューサー契約にサインをした。」1970年 Jim22歳の秋のことでした。
 そのときの最後のアルバムとなった”Deliverin’”を完成させた後、バンドメイトの元を去ることになります。CBSはJimにすぐにでも手がけなければならない6枚のアルバムを用意していました。「Richieが、僕が去ることにすごくがっかりして怒っていたことに気がついていたよ。大切な友達を失うかと思った。そして本当に、これが正しい選択なのか自問自答したよ。でも結論はもう出ていたから。」
 Pocoを離れる少し前にJimは、Kenny Logginsに出会うことになります。Pocoのツアーでニューヨークに居たとき、CBSからKenny Logginsのデモテープを渡されたのでした。「すぐに、ハリウッドの僕の家にKennyを呼んで、リビングルームで数曲録音したんだ。まだ全く未完成だったけれど、すごいパフォーマーになるポテンシャルを持ってる、ってわかったんだ。でも彼はそのとき、バンドも持っていなかったし、アンプはおろか自分のギターさえ持っていなかったんだよ。だから、僕のストラトとアンプを貸してやった。Buffalo時代に使っていてその後使っていなかったヤツをね。」
 バンドを集め、約1年掛けてKenny Logginsプロジェクトを進めていきます。当初は”Danny’s Song”や”House at Pooh Corner”といった曲に代表されるフォークソングナンバーが中心だったのですが、もう少しロックぽくしたいと思ったので「昔のジャズでよくあったみたいな“sit in”っていう感じ。バンドでもユニットというわけでも無かった。」最初のツアーだけのつもりで、一緒にステージに立ってKennyをヘルプするつもりでした。
Jim in L&M  2枚目のアルバムのプランニングが始まり、CBSとのミーティングの席で「もうKennyには僕は必要ないからスタジオに戻ってアサインされている残りのプロデュースをするから。」と提案すると、CBSの Clive Davisは「そんなことを言われてももう遅い。レコードの売り上げもかなり好調だし、プロモーションのスケジュールはすでにびっしり詰まっている。すべてデュオグループ、ということで始まってしまっているから、今さら抜けるなんて言ったって無理だからね。他の人の作品のプロデュースについては、もういいから、Kennyの方に集中してくれないと困る。」どうにもJimの意向とは別のところで力が動いてしまっていたようです。相当な議論をした後、Jimの脳裏をかすめたのはRichieだった、と言います。「Richieがどんな状態の時でも、真剣に演奏し歌っていたってことそうすべきだって思ったんだ。」
 そうしてLoggins & Messinaは正式なデュオとなり、1971年から1976年に掛けて6枚のスタジオ録音、2枚のライブアルバム(いずれも2枚組)、1枚のベスト盤(Jimプロデュースの思い入れたっぷりの選曲および2人の解説つきのもの)をリリースし、ゴールドディスク、プラチナディスクのヒット曲を残すことになります。
 しかしながら、1973年ごろからJimは、体調不良を訴えるようになります。持病の扁桃腺炎が頻繁に発生し、医者には摘出手術を勧められる。そうしないと発熱によって心臓にまでダメージを与えることになりかねない。「まだ20代なのに、自分の体をめちゃくちゃにしていたなんて考えてもみなかった。ツアー続きで睡眠不足、食べ物や水、慣れない環境、ステージで少しブランディを飲んでいたことなんかで消化器官までやられていたんだ。」
 それをきっかけにJimは、アルバム製作もライブも減らしていきたいと思うようになりますが、反面Kennyの方はもうバリバリ。Jim曰く、「根っからのeasygoing なヤツ」で「初めてのライブの時の話なんだけれど、リハーサルのときは、ぼさぼさ頭でよれよれのジーンズをはいて現れたのに、いざ本番になると皮のバンツを履いて、ロッドスチュワートばりのヘアースタイルで、挙句のはてステージをgoose-walkingで歩き回る始末。あいつは一体誰なんだってみんなで思っていたよ。」1976年Jim28歳のとき、Loggins & Messinaの歴史に終止符が打たれます。
 その後、3年ほど掛けて体調を元に戻し、最初のソロアルバム“Oasis”をリリースすることになります。残念ながらこのロングインタビューの記事でアルバムや音楽のことに触れているのは、この時点が最後になります。かなり長いインタビューなので、紙面の都合というよりJimにとって、まだ重い口を開くことができるほどの昔の物語ではない、ということかもしれません。ソロアルバムのことやLegacy のこともいろいろと聞きたいとは思うのですが次の機会を待つことにしましょう。
 その後のKenny Logginsのことを私はよく知りませんが、アルバム “Night Watch”のころ、一度来日コンサートを見たことがあります。一見とても素朴そうに見えるKennyですが、しっかりショーアップされていたコンサートであったことを覚えています。Kennyは(おそらく最初からJimが彼は成功するだろうと予想したころから)単なるロックミュージシャンではなく、グラミー賞の授賞式に蝶ネクタイスーツで現れても場違いではないようなentertainerであったのだと思います。
Jim & Kenny in those days ちょっと、意地悪かとは思ったのですが、JimとKennyの昔の写真と今の写真の両方をここでご覧ください。すっかり丸っこくなって頭もやや後退気味のJimに比べて、Kennyはすらっと背が高く本当にかっこいい。 Jim & Kenny in these days
ずっと人目にさらされて仕事をしているとこうなるのかもしれません。まぁ私たちPoco好きは、お金をかけショーアップされたライブをする見栄えのいいミュージシャンかどうかを評価の基準とはしてはいませんからno problemですよね。
 1980年代は81年にソロ第二弾“Messina”、83年に第三弾“One More Mile”をリリースしますが、70年代終わりの”Oasis”をレコーディングしたメンバーとのツアーのあとはほとんど人前に姿を見せることはなくなります。ロスの喧騒を離れて、サンタバーバラへ移り住み、一説には「農場に篭っていた」とも言われていますが、Jim「誰でも30歳前後のころって人生を見直す最初だと思うけれど、僕も今まで失ってきたものをもう一度取り戻したいって思ったんだ。」で、ゲシュタルト心理学に興味を持ちたくさんの本を読み、セラピーのワークグループに通い、さらに大学へ行って学位をとりたいとまで考えたと言っています。 Jim’s current property in Santa Ynez Valley, Wine country
Bottom Line in NY on Oct.30, 1992  このときの考えがもとになり、1995年に自身が主催する“Songwriters’ workshop”を設立します。(その前にPocoのLegacy reunionがあるのですが、それについてはアルバムレビューに譲ります。)1996年には思い入れたっぷりのセルフカバーアルバム“Watching the River Run”をリリース。前後してPoco Legacy acoustic セッション以降もぽつぽつと、アコースティックスタイルのライブを思い出したように、行っておりました。92年10月30日のニューヨークボトムラインライブ(NHK BSで放送されたもの。同じ年の9月24日のPocoライブと同じパターンです。NHKもまったくあなどれません。)93年ごろの大阪での来日公演などなど。
 そしてその後、しばらくの間はworkshopに集まった若いミュージシャンたちのライブに顔を出し、演奏していたというニュースを年に1.2回目にするくらいでした。
 さて2004年です。本当に久しぶりにJim Messinaという名前のもとでライブツアーを始めました。きかっけは・・?ひょっとしてやはりここでもRichieがJimにどこかで何かを落として行ったのでは、と私は想像してしまいます。結果的に2004年は3回Richie と一緒に演奏をしました。Kennyとは2回、Rusty、Paulとは1回。
w/ Richie #1 on July 10w/ Richie #2 on Aug.1w/ Richie #3 on Oct. 18&19

 一体全体何がきっかけだったのか、もう30年以上前から世界中を席巻している「Jim Messina は、意地悪く冷たい」という風評を少しでも払拭できたのであれば、ファン冥利に尽きるというものですがいかがでしょうか。

(Ojai_girl)



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